暁のほのお
                   水咲若狭 様



「父上!! お逃げ下さい! ここは私が!!」

 そう言った僕の声は震えてはいなかったろうか…?

 上ずってはいなかったろうか…?

 手は? 足は? 身体は?

 僕は毅然としていられただろうか…?

 敵の瞳に僕はどう映っていたのだろうか…?

「早く! 行って!!」

 そうして、僕は一瞬目を閉じ、呼吸を整えた。



冶部卿局


「それで…あなたは逃げて来たの…? 知章を置き去りにして…。信じられない…よくそんなことが…あなたはそれでも父親!?」

 冶部卿局は涙も無く、ひどく冷たい眼差しで知盛を睨めすえた。

「どうして? どうしたらそんなことが出来るの? 知章がすぐそこにいるのに? 目の前にいるのに? 息子を見殺しにする父親など聞いたことがないわ!!」

 知盛は何を言われても、ただ俯き黙っていた。

「知章はもういない。どこにもいない。あなたがそうしたんですものね! それが、それがどういうことかわかっているの!? 知章がいないのよ!」

「わかって…いる」

「いいえ、わかっていないわ」

「わかっていないわけがないだろう…」

「わかっていないわよ! わかるわけがないわ!」

 この男は何もわかっていない。いや、今目の前にいるこの男は誰? 私の知章を殺したこの男は!?

 冶部卿局が悲鳴に近い声を上げて、初めて知盛は彼女の眸を見た。

「では俺はどうすればよかったというのか?!」

「知らないわ、そんなこと。ただ、あなたは殺したのよ、知章を…」

「俺が平静でいたとでも思うのか!?」

「だから知らないわ、そんなこと! あなたはあの子の声を聞いたのでしょう? あの子があなたに語りかける最期の言葉を聞いたのでしょう? あの子の最期を…見たのでしょう?」

「見たわけではない」

「同じことよ! 見たとか見ないとか、そんな些末なことではないわ!」

「些末なことか!? これ以上に大きなことはない!」

「私にとっては同じよ! 私はあの子の声を聞いてないし、あの子の顔も見ていない。あの子の言葉を知らない。そんな私に実感があると思うの? 『行って参ります、母上』そう言ったのよ、あの子は! 『戻ったら一緒に仟桜(知忠)を迎えに行きましょう』って…それが最後よ! 最期の言葉よ!! それ以外、私は知らないわ!!」



 彼女は泣くことが出来なかった。

 泣けば東宮様が(守貞親王)心配するから。幼い姫が不安になるから…。

 いや、違う。信じられないのだ、未だに…知章がもういないのだということを…。

 他人から見れば冷たい女に見えるかもしれない。息子が亡くなったのに泣きもしない女、いやそれ以前に幼い我が子を平気で手放せる女…。

 悲しくないわけではない。寂しくないわけでもない。しかし、冶部卿局にとって息子とはほとんど知章一人だった。

 仟桜は可愛い盛りに分かれたが、思い出すまいとして本当に忘れてしまったのだろうか?

 東宮の乳母をしていた為にあまり傍にいてやれなかった。だからといって可愛くないわけではない。寧ろその逆だ。抱いてやれない、構ってやれない、申し訳なさも手伝って愛しくてたまらなかったはずなのに…。

 けれど…だからこそどこかで歯止めをかけていた。都落ち以後は尚更だった。

 そんな彼女は知章にどう映っていたのか…。

 知章はいつも何か言いたそうな顔をしていた。そんな彼の視線を感じる度に、

(ああ、仟桜のことだな)

とわかった。

 置いて行くことに最後まで反対していたのは知章だった。一度は納得したはずなのに、やはりずっと後悔していた。そしてそれは知盛も同じであった。後悔していないのは彼女だけ…。

(だってそれが一番よい方法だったのですもの)

 彼女は今でもそう信じている。

 しかし、知章は都落ち後ついぞ一度も彼女の前では仟桜のことは口に出さなかった。彼女にとっての、知章の最期の言葉となったあの時までは。

 おそらくは常に仟桜を気にかけていたであろう知章…

 そう思うと自分からもっと仟桜の話を切り出してやればよかったと思う。

 忙しかったというのは嘘ではないが、やはり自分でも努めて仟桜のことは考えないようにしていたのは事実だ。そうでなければ全ての想いが仟桜へ行ってしまったろう。

 東宮様よりも知章よりも姫よりも愛おしい仟桜…。そんな想いは捨てなければならない。いやいや違う、違うのだ。捨てるまでもなく、彼女はそんな感情を抱いたことがなかったのだから。生まれた時から仟桜に対する感情を殺して生きてきたから…

(ごめんなさいね。でもあなたも幼くて母のことは忘れるでしょう。それでいい…)

 その分知章に対する愛情はいやが上にも増した。誰に対しても誇らしい息子だった。

 心優しく、明るく、気配りがあり、上の者にも下の者にも好かれ、徳あり、情け深く、才知あり、そして勇あり武あり…

 知章さえいれば知盛などいなくても…。そう、いなくても…

 私は…憎んでいるのだろうか…あの男を…。恨んでいるのだろうか、あの男を…。あの子の父親を…。私の良夫を…。

 私から知章を奪ったあの男を、今でも愛しているのだろうか!?

 知章、知章、ともあきら!!

 仟桜を失った私にはもうあの子しかいないのに…。いや、初めからあの子だけだった。

 この先許せるのか、あの男を…。今までと同じでいられるはずがない。いつか許せる日が来るというのなら、それはあの男がこの世から消えた時だろう…。それ以外には考えられない。

 私は実際に手を下した名も顔も知らぬ源氏兵よりも、あの人を憎んでいる。己の為に知章を置いて逃げたあの男を…。

 平家にとってなくてはならない人間と頭ではどれほど理解していようと、彼女にとってはそれとは全く別のことだった。しかしそう思いながらも、どこかで共有している同じ心があるのだと思うと憎み切れなくなる己を感じる…。

 そしてその矛先は自然と、その場にいなかった家長へ向くのを抑えられなかった。

 何故あの時いなかったのか!? 逸れたと聞いた。本当か? あの時たった三騎だったという。知盛と知章と頼方と(監物太郎頼方)。頼方は討死にした。追手は十騎はいたという。無理だろう。しかし家長がいたら?? いたら当然残ったろう。そうしたら、そうしたら知章は…!?

(私は家長に身代わりになれと思っているのだろうか…)

 なんと浅ましい!

 そんなことは八つ当たりとわかっている。仕方のないこととわかっている。しかし一度考えてしまったことは増幅する。芽生えてしまった不信感もしかりだった。

 けれどもし家長がその場にいて代わっていたら、知盛も知章も無事だったのか!? そうとは限るまい。しかし、もしもそうなっていたら、彼には感謝してもし尽くせない想いのみが残り、忠義者と信頼したままでいられたのに…。知盛を憎まずにすんだのに…と。

「私はどんどんイヤな女になる…」

 どこにも辿り着くことの出来ない想いは、ぐるぐる回りながら彼女の中に澱のように溜まっていく。

 私は何が言いたかったのか…? どうなればいいと思ったのか?

 もちろんそれは平家の勝利だ…しかしそうはならなかった。だとすればあの状況で、あの人の立場で…。

 けれどけれど、やはり思わずにはいられない。

 知章、知章、ともあきら…!! 

 私は、私は…。

 あの子がいないなんてどうしても信じられない、考えられない…。

 それでも言えばよかった。言えたらよかったのに…

「あなたが死ねばよかったのに」

 と…。



「局様?」

 不意に呼ばれて、我に返って顔を上げると大納言佐局であった。

「どうなされたのです? ご気分でも?」

 そして初めて気づいた。柱に凭れるようにへたり込んでいる自分に。二位尼の許へ行こうとしていたはずだったのに。

「新中納言様をお呼び致しましょうか?」

 そう言って覗き込んだ大納言佐局の潤んだような黒く美しい眸と目が合うと、

(ああ、まだ絶望していない眸だ)

と思った。

「いいえ、何でもありません」

「では、私がお送り致しましょう」

 そう言って差し出した大納言佐局の手を、彼女は?んで思い切り握りしめた。

「いいわね、中将様は生きているのですもの。どんなに生き恥を晒そうと辱しめられようと生きているのですもの。生きていれば会える日もある」

 大納言佐局は一瞬強張った表情をし、目を伏せたが、瞬きする間に面を上げた。

「生きていても、会えるとは思っておりませんわ」

「会えなくとも生きているわ…」

「そう…ですわね…」

 大納言佐局は再び面を伏せたが、痛いほどに握っている彼女の手にもう一方の自分の手を重ねると、

「知盛様がいらっしゃいます」

「あんな男!」

「私達にとって知盛様がいらっしゃることが、どれほど心強いか…いえ、新中納言様は今の平家にとって全てです。それに比べたら私の夫など、生きていてもいなくてもたいした変わりはありません」

「・・・・・・」

「局様のお気持ちが分かるとは言いません。けれど武蔵守様は私にとっても平家にとっても希望でした」

「・・・・・・」

「新中納言様の跡を継ぐべく、これからの平家を担うべく光でしたわ。新中納言様の受けられた傷は大きすぎ、局様を受け止めることは困難でしょう。頼りない私など何も出来ませんが、居ないよりはましとお思い下さいましたら、どうぞ泣いてください」

「・・・・・・!?」

「局様、泣いてよろしいのですよ。一人ではお辛いでしょう」

「大納言佐殿…」

「局様は泣かなければいけません。涙は様々なものを押し流し浄化させることが出来ます。どうかそこまでご自分を押さえ込まないで…」

 大納言佐局はそう言うと、そっと彼女を抱きしめた。

 冶部卿局は押さえ込んでいるつもりは無かった。ただ泣けなかっただけなのだ。しかし今初めて心の中の何かがはずれた。

(泣いてもいい…そう言って欲しかったのだろうか…?)

 彼女の頬を初めて熱いものがつたい、そして彼女は慟哭した。




伊賀平内左衛門家長


 あの日以来、冶部卿局は家長とは口をきかない。

 知盛とも必要最低限の言葉しか交わさない。

 何故かは充分過ぎるほどわかっている。

 知章がいないからだ。

 あの時、知盛と知章の傍に居なかった自分を冶部卿局は許さない。

 むろん家長のせいではない。そうなってしまったことは仕方のないことだった。しかしそう思わずにはいられない彼女自身を嫌悪していることも、また家長にはわかっていた。

 ただ…ただどうすることも出来ないのだ、その想いは…。

 知章の死は様々なものを断ち切ってしまった。彼が全てを繋ぎ止めていたように思う。

 知盛と冶部卿局を、冶部卿局と仟桜を、知盛と仟桜を、そして家長と冶部卿局を…。

 壊れてしまったものは二度と元には戻らない…。逸れたことが悪かったのか!? 自分が残ればよかったのか!?

 あの時、彼らを見失わずに共にその場にいたら…自分はどうしたろうか…?

 自分は常に知盛とあり、知盛の最期以外に傍をはなれることなど考えもしなかった…。しかし現実にそれは起こってしまった。

 死ぬ時は共に≠ニ強く確約している二人ではあったが、現状が許さない場合とてある。身代わりということは有り得るのだ。が、此度はそれすら出来なかった。主人の最大の危機に自分はその場にいなかったのだから…。

 しかし…

 家長はあの日以来ずっと考えてきた。

 あの時あの場にいたら、果たして自分は知盛の身代わりになったのだろうか…?

 もちろん、知盛の身代わりになることを厭いはしない。考えたことがないわけではない。それはむしろ誇らしいことである。知盛の為にならどんなことも可能であるのだから。

 だが、それは…今ではない気がする…そんな思いが拭えない。

 では知章の死は何だったのか!? それでよかったとでも思うのか!?

 違う! 違う! それはまた別のことなのだ。

 自分にとって知盛と共に迎える死か、そうでないかという違いだ。しかしそんなふうに思うのはいま現在生きているからであり、あの時あの場にいたならば確実に自分も知章と同じ行動をとったろう。

 身代わりの死…それはなんとも甘美に家長を誘う。

 そんな想いを漠然と抱いていたことも確かにあったのだ。

 そんな酔いをうち醒ましたのは、まさにあの時だった。

 そう、あの時以来ずっと家長は考えてきたのだった…。



 家長は知盛が泣いたところを見たことがない。

 悔し涙は別だ。それは幼い頃何度かあった。

 しかしそうではない涙…それは決して人には見せない涙…。

 が、知盛は泣いた。

 家長はそれを見てしまった。

(見なければよかった)

 知盛のそんな弱い部分を…いや、幼い部分を…自分の知らない知盛を…。

 そう、あの日…まさに知章を置き去りにして味方の船に乗ったあの時…。

 知盛は泣いたのだ。宗盛の胸に縋って…。

 知盛父子とはぐれてしまった家長はやっと主人を見つけた。彼方の船へ向かって声をかけようとした瞬間、彼は安堵と喜びの言葉を呑み込んだ。

 宗盛の胸に顔を埋めた知盛の頬を拭う宗盛。そして何も言わずに知盛を抱き締めた。

 その一瞬に他人の入れない深い深い絆を見た気がした。

 泣いたことなどない知盛が宗盛の前では弱い姿をさらけ出す。知章にも重衡にも見せたことのない涙。おそらく冶部卿局にも…。そして自分にも。

 この時まだ家長は涙の意味を知らなかった。家長が知章の死を知ったのは屋島へ辿り着いてからだ。

 ただ自分はここにいてはいけないと思った。

 見たくなかった。逸れたなら、逸れたままでいたかった。

 かける筈だった言葉を失ったまま、取り残されたように遠ざかる船を呆然と見つめている自分がいた。

 あの時以来、不意に心を過ぎる不安…。

 知盛は…知盛は自分ではなく宗盛を選ぶのではないだろうか…!? いざという時には二人で刺し違えるのではないだろうか…と。

 もちろん知盛の家長に対する態度は変わらない。心とて同じだ。そう信じている、いや信じたいだけなのか!?

 そんなことはないであろうと、どれほど己自身に言い聞かせても、知盛の涙と彼を抱き締めた宗盛が脳裏を離れず、殴られたような衝撃はいつまでも続いていた。

 自分が知盛の一番近いところにいると思っていた。知章よりも冶部卿局よりも…当然宗盛よりも…。遠く離れることがあっても常に心は同じ、魂が一つと思って生きてきた。知盛という人間を最も解っているのもまた自分だと。けれどそれは違ったのだろうか!?

 己の思い過ごし? いや、そんなことはあるはずがない!

『家長、死ぬ時は一緒ぞ』

 初めて知盛からその言葉を聞いたのは、都落ちの夜だった。

 連れて行かないと決めた仟桜を託されたのは家長だった。

 抱いている仟桜の重さは信頼の重さだ。

 すれ違い様のさり気ない一言は震えるような歓喜と共に家長の全身を貫いた。

『必ず!』

 傍らの知章には聞こえぬように応えた自分の言葉は、知盛に伝わったろうかと案じたものだ。

 しかしそれは本当に最後の最期の時だ。つまり平家の最期である。

 それ以前に危機的状況に知盛が陥ったなら、当然自分は盾になる。

 盾…それは共に死ぬことと同じくらい、いやそれ以上に本望だろう。自分の死はこの二つ以外に有得ないと思っていたが…。

 一つは知章に先を越されてしまった。とはあまりよい言い方ではないが、言葉にするとそんな気持ちだ。

 知盛は知章の死を家長には語らなかった。彼は人づてに聞いたのみである。

 知盛の身代わりになれなかった己を後悔するより、知章のその時の気持ちが痛い程に解り、散らしてしまった命を惜しんだ。

 家長の中に、あの時の知章の悲痛な叫びと心が流れ込んだようだった。

 そんな眠れない夜、ふと思う。今頃知盛は夢を見ているのだろうと。

 それはもちろん知章の夢だ。

 知盛はあの日以来、知章の夢を見ない日はない。

 そんな時家長は、自分はあの時あの場にいなかったのに知章の絶叫を聞いたような気分になった。

 彼の笑顔と共に何度も何度も夢に見る。

 知盛と同じ夢を見ているのだと思う。

 知盛を通して自分は知章の死を体感し、体験しているのだと…。

 知章にはすまないが、そんなことさえ嬉しく感じる己を、そして語らずとも全てを解り合っている宗盛にどうしようもない嫉妬を覚えざる得ない己を、この先どれ程嫌悪して生きていくのだろうとかと、少々うんざりした。



 仟桜の小さな手の感触が残っている。

『家長、早く来てね』

 何度もそう言って泣きながら別れた柔らかいぬくもり…

 そう、都での最後の別れの時もあの女は顔を見せなかった。

『母上は…?』

 不安そうに周囲を見回す仟桜を知盛が抱き締めた。

『家長を困らせるなよ』

『はい』

 その時知盛を呼ぶ声がし、彼は目を伏せるとそのまま行ってしまった。別れの言葉はなかった。わざと言わなかったのかもしれない。

 知章はもう少しもう少しと屋敷の外まで来てしまった。

『兄上、お迎えいつ来てくれるの?』

『仟桜がよい子にしていれば早いかもしれないよ』

『してる! よい子だよ!』

 知章は笑って頭を撫ぜた。

『寒くなったら来る?』

『う〜ん、どうかな』

『雨降ったら来る?』

『うーん…』

『雪降ったら来る?』

『もうちょっと遅いかな』

『お花降ったら来る?』

『お花?』

『桜のことですよ』

 家長は通訳した。ああと知章は少し遠い目をした。

『そうだな。桜が降る頃に会えたらいいな』

『ほんと!? お花降ったら来るんだね!!』

『・・・・・・』

 知章は希望的な言葉を口にしたに過ぎない。しかし、はしゃぐ仟桜の笑顔を見ると訂正する気はなく、愛おしそうに微笑んだだけだった。

 そんな彼らを見ていると、自然と冶部卿局はいったいどこに?と疑問も湧いてくる。都落ちの準備の最中、忙しいと言えばそれまでだが仟桜があまりに不憫だった。

『家長、仟桜を頼む…仟桜を護ってくれ』

 そう言って家長に頭を下げた知章が忘れられない。

 そんなことを思い出しながら、家長は晴れ渡った青空と蒼くきらめく海を哀しく見つめていた。

 波間に反射する光の中に知章が手を振っている。

 そんな錯覚に陥る。

 寄せては返す波は知章の最期の叫びを運んでくる。

『父上!!』

 聞いていないはずの声が聞こえてくる。そして…

「ああ、また戻ってしまう…」

 知らず知らず呟いていた一言に続くかのように、

「知章…」

 後ろから声がした。

 なんとなくわかっていた。暫く前からその人がそこにいることに…。

 まるでそこに知章がいるかのように知盛は呼びかけていた。それはあの日逸れて以来、知盛の口から初めて聞く名であった。

 ああ見えているのだ、聞こえているのだ、知章の姿が、声が、自分と同じように…。

 いや、自分の方が知盛に連動しているのだと思った。

 知盛の心が自分の中に流れ込んで来るようで、それが堪らなく嬉しかった。

「家長、あれを許してやってくれ。すまない」

 だから暫く後、不意にそう言われた言葉にも、瞬間何のことだかわからなかった。しかし、

「然様な…許すも何も…何もございませぬゆえ…」

 口ごもりながら、こんなことを知盛に口にさせる冶部卿局に言いようのない不快感を抱いた。

「冷たい女と思うか?」

「いえ、お気持ちを抑えこんでおられるだけでしょう」

 まるで冶部卿局を庇うような言葉を自然に口にしている自分にも、腹立たしさを感じると同時に、それでもまだ彼女のことを案じている知盛が気の毒でならなかった。

「やはり仟桜を連れてくるべきだったか…さすればまた違ったかもしれぬか…」

「それは知章様がいない心の空虚さを、仟桜様が埋められるということでしょうか?!」

 言ってしまってからハッとしたが、己の言葉に更に驚いていたのは知盛の方だった。

「いや、違う! 然様なつもりで言ったのではない。忘れてくれ」

 知盛はおそらくは冶部卿局の気持ちを思って言ったのだろうが、彼の中にも気持ちがなかったとは言えない。

 気づかぬうちに発した言葉は真実を伝えるものだろう。

 己を責め続け、知盛の心はズタズタなのだ。

 そんな彼を労わり、支え、包み込んであげるべき妻が最も彼を傷つけている。

 彼女の気持ちというのもあるだろうが、知盛の比ではないだろう。

 そんなことすらわからない冶部卿局にどうしても憤りと不信感を抱かざる得ない。

 こんなに己を苦しめている女のことなど知盛はまだ愛しているのだろうか?

 彼女に何かあれば泣くのだろうか?

 では自分は…?

 知盛は自分が死んだら泣くだろうか?

 しかしあったとしてもそれはおそらく声も出さず、涙も流さない、そんな泣き方なのだと思う。声を、涙を出さないからといってそれが悲しみの深さではないと思うが…。

「知章様の代わりなど誰もおりません。その人の代わりなど誰であってもなれないのです。もちろん仟桜様の代わりもありはしません」

 仟桜がここにいたからといって知章のいない哀しさは変わらない。いやむしろ、いないことを更に痛感させられるだけなのではないだろうか。そんな大人たちの間にいたら仟桜の方が可哀想だ。

 そう思うとやはり彼を置いてきたのは正解だったのかもしれない。

 けれどそんなふうにしているこの瞬間にも、家長の心の中にはあの時の光景が──知盛の肩を抱く宗盛の姿が瞼を覆ってしまう。

 家長は哀しいくらいに己の肩を抱き締めた。

 本当は知盛を抱き締めたい。

 冶部卿局がしないのなら自分がするまでだ。なのに…まさか宗盛がその役を担うとは考えもしなかった…。

 自分が先に再会していれば違ったろうか?

 知盛は自分に縋り、涙を見せたろうか?

 いや、そんなものはいらない。

 ただただ先に出会って知盛を抱き締めてやりたかった…。

 ああそれなのに…。

「すまぬ、知章…すまぬ。仟桜…すまぬ…」

 その後に続くのは…?

 揺らめく波間をぼんやり見つめる知盛の心は、既に遠く飛んでしまっているようで家長の心に入って来ない。

 知章のことを想っているはずなのに、仟桜のことを想っているはずなのに…。同時にあの女のことも想っているからか…?

『母上は? 母上はどこ?』

『母上のとこに行く!』

 伊賀への道すがら、何度仟桜のこの言葉を聞いたろう。

 どれほど知盛が可愛がっても、どれほど知章が愛しても、今この場で家長がどれほど強く抱き締めても、やはり母でないとダメなのか!? あんな女でも…?

 仟桜を伊賀へ連れて行き、やっと西国を変転している平家に合流し、報告をした際にも、

『ずっとお方様に会いたがっておられました』

『そう、ご苦労様です』

 それだけだった。

『兄上と約束したんだよ。お迎えには母上も来るかなあ?』

『母上に会いたいよぉ』

 そんな仟桜をどれくらい宥めたことか!?

 能面のような顔をして淡々と受ける冶部卿局に、家長は何か言ってやりたいと思ったが、傍に東宮様がおられた為とどまったものだ。

 夫にも子にも冷たい女…。

 そういえば知章も知盛と同じことを言った。

 家長の心中を察して追って来た知章は、

『許してあげて。母上もお辛いんだ。ごめんね、家長』

 そして、その時もそんなことを知章に言わせる冶部卿局に腹が立ったものだった。

 優しい優しい知章…

『迎えには僕が行くから』

『知章様…』

『行きたいんだ』

 知章はきっぱりした口調で、真直ぐ家長を見つめると言った。

『では供に参りましょう』

『家長…』

『知章様は私の郷をご存知でない』

『そうだな、案内人は必要だ』

 そう言って微笑んだ知章が忘れられない。

 護れなかった知章…こんなことでは仟桜とて護りきれない。

 不意に…

 ずっと忘れていた何かを呼び覚まされたような気がした。

 家長はずっと知盛──平家に何かあった場合、己のとるべき道は死∴ネ外には有得ないと思っていた。一つは知盛と共に迎える死。もう一つは知盛の盾となり、身代わりになる死。しかし…

『仟桜を護ってね』

『仟桜を頼むよ』

 そう言った知章の真摯な瞳が何度も家長を覗き込む。

「仟桜様…」

 家長は初めて別の選択肢に行き当たった。

「そうだ、仟桜様をお護りしなければ」

 小さな、幼い仟桜を育て上げるのだ。

 知章のような知盛のような立派な武将になるように…

 私がお育てするのだ…!!

 それは霧が晴れたかのように、迷っていた道が開けたかのような感じだった。

『仟桜を頼むよ』

 知章の言葉はまだ生きているのだ。

 あの時、伊賀へ連れて行ったのみで終わったものではない。

 ずっと続いているのだ、今も…そして、これからも…。

 仟桜は育ってゆくのだから…。

 もちろんこれは第二の選択であり、第一には常に知盛の傍にあることだ。しかし今回の一ノ谷のようなことが再度起こったら…そして知盛も平家一門も敗れた時は…。

「伊賀へ行こう」

 と家長は思った。それは知章との約束だ。そして『迎えに来てね』と言った仟桜との約束。

 もう迎えに行けない知章。では自分だけでも行かなければ!

 冶部卿局は行かないだろうと思った。それは慎重さからか、警戒からか、それとも薄情さからか…?

 けれど生き残ることが家長の使命ではない。あくまで第二の選択肢である。

 あれほど嫉妬した宗盛とのことも嘘のように拭い去れた。最期の時、あの二人が刺し違えるなら、それはそれでいいと思った。いや、その方がよいことなのだろう。

 一人で死ぬくらいならば伊賀へ行くことを選ぼう。

 それがよいことであるのかどうか先のことはわからない。

 ただ…あるべき心は定まったのに、知盛と共に知盛の為に死ぬ瞬間に、置き去りにされたもう一つの心の為に躊躇いを感じるのではないかという己を秘かに恥じた。


「新中納言様」

 海を眺め続ける知盛に家長は言った。

「平家の為にはこれでよかったのです。あなたの行動は全て最善策です。知章様が最もそう思っていらっしゃるはずです。自分の行動は正しかったのだと。あなたがそれを認めてあげなければ知章様がお可哀想です。そして仟桜様も。伊賀にご無事でいらっしゃることが皆の励みになります。希望になります。あなたは宗盛様と共に平家を率いてゆかねばなりません。あなたの代わりもまた、いはしないのですから!」




新中納言知盛


 あの女は俺が死ねばよかったとでも思っているのか!? 俺が悲しまなかったとでも!? 苦しまなかったとでも!?

 女はいい。泣いていればよいのだから。

 俺がどんな想いで知章をあそこに残して来たか…。

 いや、言い訳だ。全て言い訳だ…。何を言ってもそうとしかとられないだろう。

 知盛は冶部卿局との距離がどんどん開いていくのを感じていた。

 己の彼女を見る眼が冷たくなっているのを感じる。それは彼女の方が知盛を──知章を殺した知盛を蔑んだ眼でみているからか…?

 いや違う…もっともっと前からだ。

冷たい人間だ≠ニ先に感じたのは自分の方ではなかったか…。

そう、都落ちの際、仟桜をおいて行こうと言い出したのもあの女からだった。

『仟桜はおいて行きましょう』

『え…?!!』

 知盛は耳を疑った。

 おいて行くだと!?

 仟桜を!?

 こんなに幼い仟桜を!?

 たった一人で!?

 何を言っているのだ、この女は…!?

 知盛はそんなことは考えもしなかったので理解出来なかった。

『仟桜をおいて行くだと!? 本気で言っているのか?』

『むろん。この状況で冗談など言っている余裕はございません』

『なぜ?』

『なぜ!? 仟桜は幼すぎて足手まといです。都を落ちて、先行きわからぬ旅路を連れて行くなど到底無理です』

『然様なこと、何とでもなる。姫もいるではないか』

『ですから尚更です。私達にはもっと幼い姫もいるのです。そして東宮様も。仟桜にまで手が回りませぬ』

『私だっている。知章だって…』

『殿方が何をして下さるというのです!? ずっと仟桜の傍にいて下さるのですか? 貴方は平家の大将でしょう? 出来もしない無責任なことは言わないで! 結局全ての負担は私の所に来るのだから』

『・・・・・・』

『知章だって同じよ。殿方は戦のことばかり…』

『それは仕方ないだろう。現状をみれば…』

『わかっております。だからこそ、だからこそ私だって仟桜をおいて行こうと言っているのです』

『しかし都において行けば、木曾が入京して来たらどうなるかわからぬわけではあるまい』

『ですから…』

 冶部卿局は一度言葉を切り、少々声を密めると、

『ですから伊賀へ』

『伊賀!?』

『ええ、伊賀へ預けるのです』

『・・・・・・』

『木曾とてそこまで捜すことはないでしょう。そんな余裕はないはず』

『しかし…』

『伊賀は貴方の乳母の郷。安心出来るでしょう』

『・・・・・・』

『仟桜を連れて行ったところで、平家が滅びれば当然仟桜は殺されるのですよ』

『・・・・・・』

『だったら、伊賀にいれば死ぬことはないかもしれない』

『・・・・・・!!』

『平家が滅んでも仟桜は残る。平家の、貴方の血は受け継がれて行く…』

『そなた、そんなことまで考えて!? おそろしい女だな…フッ、平家が滅びるのが前提か』

『まさか。もしもの時のことを言うてみたのみ。私達が都へ戻ればすぐに迎えに行けば済むこと。違いますか? 仟桜にとっても平家にとってもその方がよいはず』

 わかっている…。しかし…そうは思ってみてもどうしても釈然としない想いが残る。

『わかった。では家長に託そう』

『そうですわね。信頼出来る者でないと』

 家長を呼びに行こうとして、ふと振り返った知盛は、表情のない顔でこちらを見つめている彼女と瞳が合った。

 そういえばいつからこんな顔をするようになったのか…能面のような、凍ったような面…。笑った顔を見なくなってどれほど経つのか…?

 そんなことを今気づいた己にも驚いていた。

 知盛は息苦しくなり、自分の方から瞳を逸らしてしまった。

 彼女の言っていることは理に適っていると言えよう。しかし母として寂しくはないのか?

 いや、この結論に至るまでに考えに考え、苦しみ抜いた末だろう。母だからこそ、安全な場所にと願う心から。

 そんな当り前な感情を彼女が持っていなかったのかと疑った己を恥じたものだった。

 しかし…母だから当り前!?

 知章と仟桜に対する態度がこれほど違うのに!?

 何故あの時そうは思わなかったのか不思議だった。

 では仟桜を連れて来た方がよかったのか?

 それは今でもわからない。

 敗れた平家に、再び都に上るまでに立ち直る余力があるのか!?

 たった一人残されて、生きて行くことは幸せなのか!?

 生きていれさえすればよいのか!?

 いや、生きていえばこそ様々な未来も選択もある。我々と共にいて敗れれば残された道はただ一つ…それよりはマシだろう…。

 知章を失ったことにより、もはや仟桜よりも姫よりも知章が占める位置が大きくなった。自責の念に狂いそうになるのを抑えるのに必死のあまり、仟桜が遠のく。

 知章を失ったからといって仟桜に将来を託そうなどという考えは持ってはいけないとわかっている。仟桜は知章の代わりではない。しかしそんな想いが仟桜を考えさせまいとする。

(俺もまた薄情なのか…? 所詮冷たい夫婦なのだな、我々は…)

 こんな、心臓を鷲?みにされたような痛みと苦しさを抱えて、いつまで生きて行くのだろうかと、知盛は問うた。



 あの日…

『父上!! お逃げ下さい!』

 何故あの言葉に従ったのだろう…。

 絶対に死んではならない。生きて戻らなくてはならない。平家の為に! 主上の為に!

 いや、違う! 己の為ではなかったのか!? ただただ己が生き延びたいが為では…。

 平家の為に己だけは何としても生き残らねばならぬという烏滸がましさあったのか!? その為には息子さえ置き去りにしても構わぬと…?

『父上! あなたは平家にとって何より必要な方です! 何としても主上の許に戻らねばなりません。行って! 早く!』

 そうして踵を返してしまった自分…。

 知章の最期の絶叫を背後に聞きながら夢中で駆けた自分…。

 何故? なぜ? ナゼ??

 いや、何故も何もない。己がそれを望んだからだ。

 生きることを! 逃げることを! 卑怯な俺! 汚い俺!

 自分で自分が許せない…なのになのになのに、何故誰も俺を責めない!?

 卑怯だ! 怯懦! 武士のすべきことではないと、何故言わぬ…。いや、あの女だけは言った。

 責めて欲しかったのに彼女の言葉は、抉るように鋭く突き刺さり、抜けることはなかった。

 やはり俺はずるい人間なのだ。責められれば苦しさから逃れられるとでも思ったのか。 人間とは何と心貧しく、小さいものか…。

 あの時以来、あの知章の言葉を言い訳に生きているような自分がどうしても許せない。同時に全てを許す≠ニ言ってくれた人の言葉が何度でも心に響いてくる…。

『主上と兄上がご無事でよかった。お二人が無事なら平家は何度でも立て直せる』

 知章を置き去りにした直後、宗盛の船に辿りついた知盛は、こんなことがまだ言えたのだ。

 いや、忘れるように振り切るように言ってみただけだったのだろう。なのに…

『どうした? 顔が真っ青だぞ』

『いえ…』

『震えている』

『・・・・・・』

『武蔵守はいかがした? 一緒ではなかったのか?』

『・・・・・・!!』

 訳も言えずに、震える肩を押さえる為に己自身を抱き締めていた知盛を、宗盛は黙ったまま抱き締めた。

 途端に身体に電流が走った。

『あに、兄上…』

『よい。知盛』

 抑えていたものが一気に迸ったようだった。

『あ、兄上…知章が…知章が…私の為に…私の…』

 溢れ出てしまった涙はもう抑えようがなかった。

 知章の言葉が呪文のようになって知盛を硬く凍らせていた。凍りついたまま、ただひたすらに知盛は走って来たのだ。それが宗盛によって溶け始めている。

『私は許されないことをしました。知章を…私の盾になってくれた知章を身代わりに置き去りにしました…武士として、いや、人として許されぬ過ちを犯したのです』

『いや、武蔵守はそうは思っておらぬだろう』

『知章がどう思うと、他の誰も許さないでしょう。自分でも己自身が許せない!』

 知章はもういない!

 我を失って叫んだ知盛の身体を、宗盛は再び強く抱き締めた。

『私が許そう』

『兄上…』

『他の誰が許さなくとも私が許そう。私にはそなたが必要だ。いや、今最もそなたをなくてはならぬ存在としているのは私だろう』

『・・・・・・』

『私は武蔵守に礼を言わねばならぬな。知盛を私の許へ返してくれたことへの…。私の言葉なぞ何の慰みにもならぬだろうが、私には今この場にそなたがいることが全てに感じられる。傍にいて私を支えてくれ』

『兄上…』

『知盛、平家を立て直そう。そして必ずや都へ…都へ戻った暁には二人で武蔵守に詫びよう』

『兄上、兄上…』

『武蔵守よりそなたを必要とする私を、武蔵守は許してくれるだろうか…? そんな私を、知盛、そなたもまた許してくれるだろうか…』

『・・・・・・』

 宗盛の言葉は暖かく知盛を包み込み、凍っていた知盛の心も身体も涙と共に全てを溶かしてくれた。

 おそらく自分も含め、誰も許さないであろう中で、宗盛だけは心底そう思ってくれている。他の者ももちろん知盛を必要としながらも、しかし子を見殺しにした彼にどこかで冷たい視線を送るに違いない。

 知盛は宗盛の胸に縋り噎び泣いた。傷だらけの心に温かさが沁みこんでいくようだった。

 知盛は清盛亡き後、周囲が宗盛を総帥の器無しと言うことにいつも憤りを感じていた。

 皆、何もわかっていない!

 確かに父のようにはいかない。兄は武士的な面も苦手だろう。

 しかし父のような人間であることの方が稀なのだ。比較されることは辛い。父が偉大であればあるほど…。

 でも宗盛もわかっている。だからいつもどんなことでも知盛に相談する。

 そんな兄に信頼され、頼られるのは知盛も嬉しかった。

 その心に応えたい、支えたいと思う。しかしそうすればするほど周囲は知盛殿が棟梁の方が…≠ニ噂する。

 自分こそ身勝手でとても棟梁になど向いていない。政治的なことは苦手だ。だがもし、知盛が棟梁であったなら、それはそれできっとまた文句は出るに違いないのだ。

 そんなものだ。だからお互いを補い合って二人でやっていければよいと思う。

(いや、俺は支えでよいのだ)

 兄上は優しすぎる▼・・周囲への憤りと反感と共にいつも思っていた

 優しさとは長所でありながら、武家の総帥としては最大の徒となるものなのかもしれない。

 小松殿がいればよかった≠ニは皆が言う言葉であるが、果たしてそうだろうか…!?

 重盛がいればこの崩れ行く平家をくい止めることができたのか!?

 重盛ならば何一つ失うことなく、揺ぎ無い平家を保っていけたのだろうか!?

 否だろう…。いま現在平氏の棟梁でいることが、宗盛にとっての不幸であるに過ぎないのだ。

 知盛にとって重盛は年も離れていたし、母親も違ったし、少々怖い存在だった。

 周囲が言うほど人道的とも人徳があるとも優しいとも思わなかった。いや実は冷たいと感じていたくらいだ。いつも礼儀正しく、冷静で近寄りがたい雰囲気があった。

 そう思うのは自分だけだろうか?

 だから重盛が逝き、清盛が逝き、押し出されるように宗盛が平家の頂点に立った時、自分は全力でこの人を護らなければならないと思った。

 全力で平家を、宗盛を援け、支えることが自分のなすべきことだと…。

 おそらく宗盛の方でもそう思ってくれているのだということが伝わってきていた。

 語り合ったわけではない。しかし二人でやって行こうという暗黙の了解が、自分と宗盛の間にあったと確信している。

 宗盛が、どんなことにも知盛の意見に耳を傾け、尊重してくれることが嬉しかった。叔父達の言葉よりも知盛に重きを置いてくれることが。

 彼から受けた信頼を信頼で返さねばならない。

 ずっとそうやって二人で走って来たのだと…だからあの船の上での宗盛の許そう≠ニいう言葉にどれほど救われたことか…。

「俺は許されたかったのだ…」

 それなのに未だに自分は苦悩している。

 許されても許されても、許され足りないのだ…。



「お願いがございます! 今後の戦には全てこの能登守教経をお使い下さい」

 いきなり直訴に来た教経に知盛は面食らった。

「大将にして欲しいなどと言っているのではございません。一兵士で構わぬのです。どうかどうか私を最前線へ!」

 そう言って頭を下げたまま上げようとしない教経に少々困惑した。

「何があったのだ?」

「何もありません」

「面をあげよ」

 しぶしぶのように面を上げた教経の瞳を見て、迷いの無い潔さを感じた。

「新中納言様、オレは決して彼奴だけは許さぬ! 必ず、必ずオレが連れてゆく!」

「穏やかではないな。彼奴とは判官か?」

「一ノ谷の仇は必ずオレがとります!」

「しかしオレが連れてゆく≠ネど、お前まで一緒にいなくなっては困るな」

「オレがいなくて困るなどと言って下さるのは新中納言様だけです」

 教経は嬉しそうに微笑んだ。

 教経は兄と弟と、そして多くの一族を失った一ノ谷の敗北は全て義経の所為だと思っている。その悲しみと怒りと憎悪の全てを義経にぶつけていた。

 そう、小宰相のことまでも…。

 彼は一ノ谷前、小宰相に辛くあたったことをずっと悔やんでいた。いや、それは二人が今いないからだろう。いたら、そうは思わなかったかもしれない。

 しかし今此処に、通盛も小宰相もいない。自分があんな態度を取らなければ小宰相は生きていたのか? そうではないだろう。それとこれとは関係ないことだ。

 それでも彼は己を責めざる得ない。

 彼もまたずっとずっと苦悩して来たのだ。

 そしてそれら全ての原因を作ったのは、汚い手を使った義経だと。

(気持ちは分かるが考えが飛躍しすぎだ)

 それでも…ふっと思った。

(通盛は幸せな奴だ…)

と。俺が死んでもあの女は後追いなど絶対にしないだろう…。それを望んでいるわけではもちろんないが、有得ないと分かると少々寂しい。出逢った頃なら違ったろうか?

 そう思うと彼女との距離、いや溝がどんどん深くなっていくばかりであるのをどうしようもなく感じていた。

 不意に教経が知盛の両の手を取って握り締めた。

「新中納言様、知章を忘れろとは言いません。いえ、そんなことできるはずもない。しかし考えないようにすることは出来ます」

 考えない…? 自分は考えないようにしてきたではないか…?

 言われた言葉の衝撃の大きさを抑えながら知盛は苦笑した。

「俺はそんなに顔に出ているか?」

 教経は口元で笑っただけだった。

「今は源氏のことだけを、源氏を倒すことのみをお考え下さい。それが知章の為でもあると思います。知章のことは…」

 教経は一瞬遠くを見つめるような、否、己の内側を見つめるような、他の何かを想うように瞳を彷徨わせた。

「一生…勝って都へ戻っても、我々が背負って行かなければならないものです…だからこそ、だからこそ何としても源氏を!!」

 教経は我々≠ニ言った。それは遠慮からか優しさからか? いや己を含めてという意味か?

 どれも当たりだろう。

 知盛は教経の瞳を見ずに彼の手を握り返した。

「源氏を忘れているわけではない」

「わかっております」

 教経に視線を向けた。彼が大きく見える。

「戦ってくれるか?」

「むろん、いつでも!!」

 教経は顔を輝かせた。

「尤も彼奴は都で官位を貰い、調子づいているらしいので戦に出て来るかわかりませぬが」

「頼朝との仲もよくないそうだな」

「源氏同士の仲違いなどどうでもいい。戦に出て来ぬなら引きずり出すまで! 我らが勝ち続ければ出て来ざる得ないでしょう。しかしその前にくだらぬ兄弟喧嘩で先に倒されては困るな」

「教経、それは普通我々にとって有益なことだ」

「オレにとっては違います!」

 教経はいきなり立ち上がった。

「それに源氏の棟梁は頼朝ぞ」

「ですから頼朝は、知盛殿、貴方が倒して下さい。あのチビはオレが必ず!!」

「頼もしいな」

 源氏の話をする程に活き活きとキラキラしていく教経の表情を、知盛は不思議そうに眩し気に見上げた。

「そして都へ戻った暁には、知盛殿! 仟桜を迎えに参りましょう!!」

 振り返り様笑った教経の華やいだ顔が、かつて同じことを言った知章の笑顔と重なった。

 一瞬呆けたように教経を眺める知盛に、

「オレが話してやります、仟桜に。たくさんたくさん、知章のことを!」

「教経…」

 その時初めて、今までずっと知盛の胸の奥で響いていた『父上!!』という絶叫が消えた。その代わりに知章は幼さを残した、はにかむような笑顔で知盛に言った。

「さあ、参りましょう。父上!」




        武蔵守知章


 ドキドキしているんだ…。これは緊張? 高揚感? 恐怖?

「能登殿は?」

「オレだってそうさ」

「ほんとに? 能登殿の心臓は毛むくじゃらだって!」

「誰がそんなことを!?」

「うーん…誰だったかな…? みんなだよ」

「みんなって誰だ!?」

 言いそうな奴がたくさん居すぎて誰だかわからない。あ、自分かも!?

 知章は初めてつける甲冑に心も体もガチガチだった。

「初めてじゃなくてもドキドキするの?」

「するさ」

「そっか!」

 知章は胸の高鳴りを弾き飛ばすようにわざと大きな声を出し、ガチガチの体を解すように伸びをした。鎧に着られてあまり出来なかったけど。

 寿永三年二月、平家は一ノ谷に布陣した。

 都奪還を懸けたこの戦に、知章は初めて参戦する。そして今日は故入道相国清盛の法要が営まれることになっている。

 しかしどうにも落ち着かず、傍らの教経に再び話しかけた。

 黙っているとまたドキドキ感が溜まっていきそうだった。

「初めてじゃなくても怖い…?」

「怖いよ」

 教経はなんでもないことのように言った。

「ほんとうに?」

「二度目でも三度目でも何度目だって怖いさ。怖くないやつなんかいない」

「そういうもの…?」

「そういうものだろう」

「でも父上は違うよね?」

「さあ…心の内は誰にもわからない」

「でも父上が怖いなんてこと有り得るわけないよ」

「そうかもな…」

 なんだか知章には、教経がずいぶん突き放したような言い方をしているように思えてしようがない。

「ほんとに? そう思う?」

「・・・・・・」

「僕は能登殿が怖いなんて言うことすら意外だよ。だって毎回恐怖心があったら戦になんか行きたくなくなるでしょう?」

「知章、我々は武士だ。武士が戦を怖れてどうする」

 言ってることが矛盾している…。

「我々は上に立たねばならぬ人間だ。兵達の前で怖いからと行きたくないなどと言えるか? そんな態度をとれるか?」

「行きたくないって思う時もあるの?」

「あるさ」

「そんな時、気持ちをどうやって切り替えるの?」

「我々には責任がある」

「責任?」

「義務と責任だ。一兵士が一人逃げても戦の大勢に影響はないかもしれない。しかし上に立つ人間はそれをしたらいけない」

「・・・・・・」

「指揮する人間が逃げたらどうなる?」

「兵は崩れる」

「だからどんなことがあっても逃げてはいけない。それは上に立つものの義務と責任だ。その想いが恐怖を抑えつける。オレはそう思っている」

「父上も…?」

「知盛殿は責任感の非常に強いお方だ。人徳もある。そういう人間に兵達はこの人ならば≠ニ付いて行こうと思うものだ。信頼が兵達の恐怖心を取り除く」

「・・・・・・」

「知章、お前もそういう将になれ」

「え…? ぼ、僕!?…」

「なれるよ、お前なら!」

「そんな、能登殿の方がずっと…」

「オレはダメだ」

「そんなこと…」

「オレは上に立てる人間じゃないんだよ」

 教経はあっさり言った。

 知章は絶対にそんなことはないと思う。

 教経には人を惹きつけてやまない力がある。それは放ってはおけない危うさと表裏一体だが、それでも彼に付いて行きたいと思わせる人間的な魅力を彼はたくさん持っている。

 謙遜なのかと思ったが、そうでもないらしい。知章にはよくわからなかった。それより教経に出来ないことが自分に出来るとは思えない。けれど、そうなるべくありたいともちろん思う。そう、父上のように…

「ねえ能登殿、父上は僕の憧れなんだ」

「オレにとってもそうさ」

「僕は父上の右腕になれるかな?」

「なれるさ! そして左腕はオレだ」

「え? 叔父上もそう言ってたよ」

「重衡殿?…イヤ、彼はちょっと、違うだろ」

「違うって?」

「そういうポジションじゃないってことさ」

「どういうポジション?」

「その、右腕とか側近として傍にいるんじゃなくて…なんていうか、もっとこう対等っていうか、同格的っていうか…」

 言い方が見つからず。モゴモゴ言う教経を、知章はやっと緊張を解いた瞳で微笑ましく眺めることが出来た。

 教経は重衡に右腕にも左腕にもなって欲しくなんかないのだ。

 教経が重衡に、知盛を間に挟んでのジェラシーというか、対抗心のようなものを抱いているのを知っている。

 本人は気が付いていないのかもしれない。

 重衡も知っていてわざと自分の方が知盛に信頼されているのだというような態度をとったりする。

 からかわれているのだ。

 でもそんな彼らを知章は好きでたまらない。

 みんな父上が好きなんだ。能登殿も、叔父上も、僕も、そして母上も…。越前殿だって若狭殿だって、それから敦盛だって!

 皆から慕われ、尊敬され、信頼されている父が誇りであり、憧れなのだ。

 父上の様になりたい、ううん、あんなふうにはなれはしないのだから、一番傍に近くにいられればいいんだ。一番近くで…そう、護ってあげられれば…。

 知章なんぞが知盛を護る≠ニ言うのはおかしな言い方かもしれないが、彼は本気で自分が父親を護ろうと思っている。

 いや、父だけではない。母もそして仟桜も…。

 自分は護られる側ではなく護る側になったのだと、今日この日、決意を新たにした。

 知盛は自分が護られるなんてチャンチャラおかしいと思うだろう。しかし知盛は最も護られなければならない人だった。

 知盛は自分では、総帥であり兄である内大臣──宗盛を己が護っていると思っている。でも知盛を護る人はいないのだ。

 知章はそう思っている。だから自分が護るのだと。

 家長や重衡や教経達はそれぞれ『まさか!オレが護っている!』と思っているだろう。

(でも…違う…)

 知章にはそうは見えない。彼らは共に戦っているのだ。護るのとは違う。

 こんなことを言うと特に家長などは怒りそうだが、家長だって護ることが全てではない。もしかしたら本人は“全て”と思っているかもしれないが…。けれど彼には彼だけのなすべきこともあるだろう。

 知章には何もない。何も出来ない。だから護るしかないのだ。

「何としても父上を護らなければ」

 それは母の為でもあり、仟桜の為でもあり、そして宗盛の、平家の為でもあるのだから。それは宗盛が不甲斐無いからという意味ではない。

『知盛殿が平家の総帥であればよかったのに』

 そんな言葉を知章も耳にしたことがある。そして父がひどくそれを厭うていることも…。その前に必ず付く

『宗盛どのは棟梁としてはちと…』

 この言葉に宗盛も知盛もどれだけ傷ついてきたことか。知章にとっても聞きたくない言葉であった。

 父はそんなものにはなりたくない。ただ兄を援けてあげたいだけなのだ。宗盛も自分には向かないと分かっているから苦しんでいる。その苦しさを少しでも取り除けたらと、そう思って行動しているだけなのだ。

 知章の祖父の清盛は何事も己で決断し行動した。しかしそれが出来ないからといって宗盛を責めるのは酷だろう。

 清盛を恐い人だと言う人もいるが、知章にとっては優しい祖父だった。そしてまた宗盛も優しい伯父だ。祖父とは全く違うタイプの優しさだが…。

 幼い頃、

『おお知章、大きくなたったなあ!』

 始終会っているのに、会う度に宗盛は満面の笑顔で知章を抱き上げ、そう言った。

 父にそれを言うと真面目な顔をして、

『本当なのだから仕方ない。二〜三日顔を見なくても大きくなったと感じるものだ』

(そんなことあるわけないだろ!)

 大袈裟なんだよ!と思いつつ、宗盛の暖かい腕で抱き上げられるのは嬉しかった。そしてそれは照れ臭く恥ずかしかったのだ。

 いつだったか、都を出て西海の波間を漂っていた頃、たまたま船の中で宗盛と二人だけになったことがあった。

 何か言いたそうにモジモジしている知章に宗盛は、

『どうした? 武蔵守、何か話したいことがあるのだろう?』

 優しく促した。

 知章は言っても仕方の無いことなので躊躇っていたのだ。ただ誰かに聞いて欲しくて…。

『うん…伯父上…いや内大臣殿…』

 慌てて言い直した知章に、

『伯父上でいいよ。二人きりなのだから』

『うん。伯父上、家族が離れるのはよくないことかな?』

『仟桜のことか?』

『うん…』

『寂しいのか?』

『うん…それもあるけど…言葉に出せないのが苦しいんだ。誰にも話せなくて…。父上も母上も、僕が仟桜の名前を口にすることさえ畏れてるのがわかるんだ。でも誰かと話したい。仟桜のことを話しちゃいけないなんてことないだろうって…きっと仟桜だって毎日聞いてるに違いないんだ。父上はどうしているかなあ、母上は心配してるんじゃないかなあ、兄上はいつ迎えに来てくれるかなあ≠チて…きっと…』

 仄暗い屋形船の中で、もっと暗くなりそうな己の心を振り絞るように宗盛に語った。

『仟桜の話ならいくらでも聞こう。彼が生まれた頃、私は多忙で仟桜のことをよく知らない。そんなことも含めて全部、仟桜のことを話してくれ』

『伯父上…』

『確かに父や母には辛い話かもしれんな。彼らに話すことは知章自身が逆にもっと辛くなり、楽しくない話になるぞ』

『…そうかな…そうかもね…でも都落ちからずっと確信が持てないでいるんだ。仟桜をおいてきたことが、よいことなのかどうなのか…って』

 知章は思い出すように目を閉じた。

『兄上、一緒に行く! やだよぉ、やだよぉ…』

 そう言ってしがみついてきた仟桜の腕がまだ首に巻きついている…。

 知章は後悔していた。仟桜を残して来たことを…。

 確かに幼い者には大変な生活だろう。しかしやはり離れていてはいけない。自分が面倒をみればよかったのだ。

 今ここに仟桜がいないということが、知章の心に深い影を落としていた。

 伊賀にいる方が安全である。そんなことはわかっている。けれど自分の中で整理しきれない想いがぐるぐる廻り、その度都が遠のいて行く気がする。

 予感…だろうか? いや、そんなことはない。考えてはいけないと思いながらも不安に押し潰されそうだった。

(仟桜…仟桜は僕のことなんか忘れちゃうかなあ…)

 抱き付く小さな腕が嬉しくて、仟桜の温かなぬくもりを忘れまいと強く強く抱き締めた。

 ああ、寂しいのは僕の方なんだ。僕の方が離れられないのだ…。

 知章の閉じた瞼が僅かに震えているのに気付いた宗盛は知章の肩にそっと手を置いた。

『知章、父や母のしてきたことを間違っていると思うか?』

『・・・・・・』

『そりゃ仟桜がいないのは寂しい、皆仟桜に会いたいと思っているだろう。けれどそれは現在の感情だ』

 知章は目を開けて、宗盛へ視線を移した。

『そなたの父や母はもっと遠くを、もっとずっと先のことを見据えている』

『先…?』

『そうだ。目先の感情ではなく、先々どうすることが最もよいことであるのかを考えぬいての結論だ』

『それは…平家が都へ帰れないということ? 平家が滅ぶということ!?』

 知章の声は震えていた。

『そうではない。しかし、そうあることも考慮に入れてということだ』

『そんなことになったら、もう仟桜に逢えない!! そんなこと! そんなことって!! やっぱり連れて来るべきたっだんだ!』

 取り乱したように叫び、つっ伏した知章に宗盛は諭すように言った。

『だからそれが目先だけの感情だというのだよ』

『だって…』

『それはそなたの気持ちだろう? そなたはさっき仟桜をおいてきたのはよいことなのかどうなのか?≠ニ言った。なのに今の言葉はよいとか悪いとかではなく、そなただけの感情だ』

『・・・・・・』

『寂しいのはそなただけではない。だから話せなかったのだろう? 知章、そなたはわかっていたはずだ。父や母の心を』

 そうなんだ…わかっていたんだ…わかっていたけど…。

 知章は何度も頷いた。

『わかってる。わかってるんだよ、伯父上…でも…』

 肩を震わせて泣く知章の背に宗盛は再びそっと手を置いた。

『先のことを考えたくないから、考えないようにしているから、よいことなのかどうなのかわからなくなるのだろう。現状をよく見ることだ。現在を見て先を見る。イヤなことでも突き詰めてよく考えてみることだ。それからよい方向へ考えるようにすればいい。どんなに絶望的に思われても、僅かな光を見つけて前に進まなければいけない。それはなかなか難しいが、止まっていては何も解決しない。よい方へ考えなければそこで終わってしまう。悪いことばかり考えていると本当にそうなってしまうよ。人は負の力に引き込まれるものだ…。足掻こうじゃないか、知章。足掻いて足掻いて諦めずにいればまた様々なことが変わってくるかもしれない。しかしまあ、本当に何が正しかったか、わかるのはずっとずっと後のことだがな…渦中にいる間はわからないものだ。わかっていると思っていても実はそうでなかったり…とりあえずは都へ戻れば仟桜に逢えるのだと、共に全力を尽くそうではないか!』

『伯父上…』

 ああ、そうなんだ。僕は回避してきただけなんだ…仟桜をおいてきたことが間違いだったという結論に至りたくないだけだったのかもしれない。

 そんなことはないのに…自分がもう逢えないかもしれないと思いたくないだけだったのだ。

『伯父上!!』

 知章は宗盛に抱きついた。

 どうしてどうして、わかってしまうのだろう?

 図星を指されて心が震えているはずなのに、言い当てられたことが逆に嬉しかった。

 しかし先ほどとは裏腹に、抱きしめられながら宗盛は言った。

『すまぬな…もともとは私が都を去る決断をしてしまったからだ』

『・・・・・・!!』

 ハッとして知章は宗盛を見上げた。

『都を戦場にはしたくなかった…しかし逃げだな。言い訳だ。逃げたと笑ってくれていい』

『いいえ、いいえ! 伯父上…』

 一番苦しんで、一番耐えて来たのはこの人なのだと、知章は今知った。

 多分、いくら援けても支えてもこの人の孤独と辛さは決してなくなりはせず、誰にもわかりはしないのだと…。

 知章は己の小ささを恥じた。

 わかっているつもりだったのに…。

 つもり、だったんだ…。

『伯父上は優し過ぎます』

『優しくはないよ…私は己の逃げる心だけで多くの人を巻き込んでしまった』

『都が戦場になっていたら、もっと多くの人が巻き込まれていたことでしょう』

『だったら己のみ逃げればよいものを…主上や女院、東宮様までも同じ道に引き摺り込んでしまった』

『主上がご一緒でなければ我々は朝敵です』

『既に半分朝敵だよ。法皇様をお連れ出来なかった』

『主上のおわす所が、三種の神器があるところが正しき朝廷です』

『形を成していないのに…人もいないのに…』

『なくてもです! 伯父上、弱くなってはいけません! さっき僕をお叱り下さったではないですか!? よかったことなのですよ。よい方向へ考えましょう。そして都へ帰りましょう! ハハハ…逆になってしまいました』

 笑ってから知章は、静かに微笑んでいる宗盛を見て思った。

(もしかして、わざとそんなふうに…?)

 しかし宗盛は、

『そうだな、逆に知章に元気づけられてしまったな。いつもいつも心弱くてダメだな、私は…』

 わざとなのか本当なのかわからなかったが、どちらも真実なのかもしれなかった。

 知章は宗盛がここまで己の弱さを曝け出してくれたことが嬉しかった。

 きっと父上でさえ、こんな伯父上は知らない。清宗なんか絶対知らない。

 でもいつか教えてあげよう、どれほど彼が心優しい人であるかを…。


「ここまで来たんだ」

「え? なんか言ったか?」

 あの時の宗盛の言葉が無かったら知章は闇に押しつぶされ、己を見失っていたかもしれない。

「能登殿! ここまで来たんだよ。都はもうすぐそこなんだ」

「そうだな」

 伯父上の決断も、父と母の決断も全てよい方向へ回っている。

 今はこれでよかったのだと確信出来る己を宗盛に感謝している。

「都へ帰るのだから。伊賀へ迎えに行くのだから!」

 暁が燃える中、知章は誰にともなくそう叫んでいた。



「父上!!」

 そう叫んだ己の声を、僕は他人のように聞いた。

 僕は何をしているんだろう?

 何をしようとしているのか?

 父と敵との間に割って入ろうとする己にこれでいいのか?≠ニ何度も問うている別の己がいる。冷めた眼で見ているもう一人の自分が…。

 僕は死ぬつもりなのだろうか?

 父の身代わりとなって!?

 いや、本当に死ぬんだろうか?

 いま、ここで…?

 父の為に死ぬことがイヤなわけではない。それは喜びであり、本望であり、誇りである。ただ…。

 不思議なだけなんだ。

 今ここで死ぬかもしれない自分が…。

 死んでしまう自分が…。

 そんな実感がない…。

 実感がないのは僕がもう死んでいるから??

 魂がとっくに抜け出ているから??

 戦にはいつも早く行きたいと思っていたのに…。

 こんなに早く死んでしまうのか?

 初陣なのに…。

 僕は死というものをあまり考えないようにしてきた。だから戦に行きたいなんて言えたのかもしれない。戦と死は=ではなかった。

 死について考える時間などない方がいい。あればあるほど怖ろしくなってしまうだろう。一瞬で片が付くならそれが一番よい方法なのだ。だから、戦の直中で一瞬で燃え尽きるのが理想だったのだろう…漠然と、そんなふうに思っていたのかもしれない。

 だから能登殿の言っていたことも、全然わかっていなかったのだと今わかった…。

「父上!!」

 僕は最後にもう一度父を振り返ると笑った。

 笑わなければいけなかった。そうでないと父は前に行くことが出来ない。

「大丈夫!」

 と…。

 父に覚えていて欲しい、想い出して欲しい僕はとびきりの笑顔でないと!!

 そうして、もう一人の僕は遠ざかる蹄の音を聞きながら、三度目の

「父上!!」

 という最期の絶叫を聞いていた。



 母上…僕を褒めてくれるかな…

 父上を護ったよ…あなたの最も大切な人を…

 仟桜・・・父上を、母上を、僕の代わりにたすけてあげて…

 君にそう伝えられなかったことが心残りだ

 いや、僕が君を護れなかったことが…

 いつか、君と一緒に父上の横に立ちたかった

 君が、勇ある智ある、強く立派な武将になるように…

 仟桜、迎えに行けなくてごめん…

 父上、仟桜をきっと迎えに行ってあげて…

 ああ、都が遠のいてゆく…

 仟桜、仟桜、もう一度「兄上」と呼んでおくれ

 そしてその小さな腕で僕を抱き締めて…

 さようなら、永遠に…

 千の桜が降って、僕の身体を隠してくれるよう、祈っていて…




 桜は降らない。

 伊賀の仟桜はまだ何も知らない。

 平家は戻らないのに、花は降らないのに、兄は迎えには来ないのに…。

 降ることのない花を待ち続ける仟桜が、全てを知るのはずっと後のことである。






参考文献  「遠影」 

最後のコレ↑が無ければ、どれだけ良かったモノか・・・orz
私のめっさ古い同人誌デス(><。);;;

若狭さんが私の誕生日のお祝いに・・・vと書いてくださいました。

うっかり宗盛×知盛にときめいたり
それに嫉妬する家長が可愛いとか思ったりしましたが・・・
若狭さん、ナチュラルにその辺を書いてくれてます〜v
頼むから、その辺をもっと詳細に書いてください!!

いやいやいや、知忠と知章がめっさ可愛いですv
(辛抱たまらずイラスト描きました・・・^^;)
しかも知忠の幼名(名付け親は若狭さんデス。「遠影」でどうしても知忠幼名が欲しくなり、若狭さんに付けていただいた過去があるのですv)を最後の締めに
持ってくるところが、好きです〜♪
治部卿局と知盛の最後は、結構さめた夫婦間vというのもいいなー♪(←歪んだ人間ですみません;;

若狭さん、ありがとうございました!!
来年も私の誕生日はやってきます。
そのときには、家長×知盛を待ってますねv(こらこら☆

と、言う冗談はおいといて・・・本当にありがとうございました。
一粒で何倍もオイシイSSでしたよv
相変わらずの若狭節にきゅんきゅんしてたのは、ここだけの秘密です。

イラスト扉へ
TOPへ

inserted by FC2 system