波に抱かれて 水咲若狭 様 |
「貴殿がいなくなればいい」 思いもよらぬ言葉を、いや予期していたと言うべきだろうか…。 冷たく投げつけられた言霊は妙に家長の心に沈み、追い出すことが出来なかった。
「内大臣殿は何と?」 「確証もないのに切る事は許さぬと」 「阿波民部殿の態度はどうみても不審です!」 「信じたいのだよ」 「しかしここまで来て身内に黒い種を放置しておくのはいかがかと! 今こそ団結せねばならぬ時に!」 「黒い芽ではなかったら?」 「さようなことは有得ません!」 「裏切るなどあってもなくても滅ぶ時は滅ぶ…」 「知盛様!!」 「すまぬ。諦めているわけではない。ただ兄上だけじゃないんだ…。私も信じたいのだよ…成能を。都を出て九州のどこにも安住の地のなかった我々に救いの手を差し伸べてくれたのは田口一族だけだった。あの時の彼の心は本心だったと思う」 戸惑う面を伏せる知盛に何故かいつものような決断力が見えず、家長は眉根を寄せて横を向いた。 知盛の言うあの時を家長は知らない。何故なら都落ちの日、知盛の愛息仟桜を連れて行かないと決めた知盛夫婦は、彼を伊賀に隠すことを家長に託したからだ。西海を流浪していた平家と合流するのに家長は時間がかかった。 阿波民部田口成能という男は、家長から見ればそれ程信じられる人物ではない。それどころか危険極まりない人間だった。少なくとも家長には良い感じを抱くことは出来なかった。 (そう思うのはおれの心の狭さからか!?) 家長は成能に初めて会った時の見下した様な視線を忘れることが出来なかった。 「乳兄弟殿か!? たいそう信頼されているようで…。よかったな」 尊大で嫌味な言葉と無礼な目つきで全身を撫で回され、不快だった。 何故そんなことを言われるのかもわからない。 成能の態度が明らかにおかしくなったのは志度合戦で息子の教能を源氏の捕虜にされてからだ。きっと裏切れば息子は無事に返してやると交換条件を出されているであろうことは明白だった。 しかし彼は宗盛や知盛の前では、息子が捕虜になったことは伊勢三郎義盛に騙されたからであり、あれの運命であり、武士である以上そういう覚悟はお互いいつも出来ている、一ノ谷で三位中将殿を捕らわれている二人と自分の気持ちは同じであると掻き口説き、だから平家への二人への忠誠心が変わるものではないことを切々と訴えた。 まあ、裏切り者が裏切ると宣伝するはずもないが、成能の態度は微妙だった。 いや、他の人の前では忠義な武士であらん姿を演じているが、家長の前では憚りなくそれを出しているように感じるのは気のせいではあるまいと思う。 他の者達は半信半疑だが、阿波民部殿に限ってまさかと思っている程度らしい。だから家長は何度も知盛に訴えて来た。禍根は絶つべきであると! そうして、決定的なその日は来た。
「田口殿、貴殿の真意を一度お聞かせ願えないか?」 西海の果てに源平両軍の船が終結しつつある日、家長は成能をわざわざ陸へ呼び出した。 他人に聞かれたくないということもあったが、万が一のことあらば独断で切ってもと、刺し違えてもと思う決心をしていたからだ。 隠しようもない不機嫌さを露に成能はイライラしながら言った。 「何故さようなことを中納言様の乳兄弟如きに話さねばならぬのか!? 無礼千万! そんな権利はないと思うが! それとも中納言様から命令されてのことか!?」 「いえ…」 「ではその方の言うことは中納言様の言葉と思えという、驕っての発言か!? 今なら許そう、謝りたまえ!!」 一体自分は何故この男にこんな態度をとられなくてはならないのか? (おれがこいつに何をした!?) 心当たりのない一方的な嫌悪をぶつけられた不快を抑え、 「では噂されている源氏との内通をハッキリ否定できるのですか!?」 「だからさようなことを言う資格、お前如きにはないと言っているのだ。そもそもその噂、誰が流している!? もっぱらお前だというウワサだぞ!」 「それは田口殿が…」 「私が!? 何!?」 まるで家長を憎んでいるかのような鋭い眸で家長を睨めすえた。 「己の分際を弁えよ!!」 吐き捨てるように叫んだ。 瞬間、言葉を失う家長に畳み掛けるように、 「驕り高ぶった乳母子が!!」 家長はこの時はっきりと成能からの憎悪を受けとめた。しかし何故…。 「家長、教えてやろう、お前だけにな! 中納言様に言うも言わぬも好きにするがいい。教能は騙されて降ったのではない。私が行けと命じたのだ。源氏に通じる為に。チャンスがあったら逃すなとな…」 「・・・・・・!?」 愉し気にクククッと笑う成能を、家長は愕然とする思いで見つめた。 「裏切りは感じていたが一体いつから…? まさか最初から…!?」 「最初!? 最初とはいつ?」 薄笑いを残しながら、成能は横目で家長を見遣った。 「まさか…平家を受け入れ、屋島に館を造営した頃から…?」 「まさか!? あの頃、私は中納言様一族をお救いしたい想いでいっぱいだった! お前が現れるまではな…」 「私が!?」 いきなり飛び出てきた己の名に更に驚き、戸惑う家長に、 「家長、今すぐここからいなくなれ!」 そしてニッコリ微笑むと、 「貴殿がいなくなれば絶対に裏切らないことを誓おう」 あまりに強い命令口調と、うって変わったいきなりの優しげな物言いに家長は半歩後ずさった。 「何故私が?」 「貴殿がいなくなればよいのだよ」 平家への忠誠心と己を天秤にかけられた不可解さに、目まぐるしく頭を回転させながら、 「教能殿は?」 「我々は信頼されている。逃げようと思えばあれは逃げられるのだ」 「まさか!?」 「ではそう思っていればよい。さあ、どうする? 貴殿がいなくなりさえすれば、私は決して平家を裏切らない」 「そんなことわかるか!?」 「わかるよ。私は中納言様だけはどんなことがあってもたすけて差し上げたい」 「・・・・・・!?」 平家はどうでもよいのか!? 家長に言いようのない不快感が募った。 「私が裏切らなくても勝つとは限るまい」 「きさま!!」 「敗れても、知盛様だけは私が全力でお護りする」 「イヤだと言ったら?」 「裏切るだけさ」 「それでいいのか!? 教能殿はどうなる? 逃げられねば捨てるのか!?」 「その前に逃げるだろう」 「逃げられなかったら?」 「運命だ」 さらっと言ってのける成能に家長は吐き気を覚えた。 「最悪の父親だな。気の毒な息子だ」 「忠節の為と賛えられよう。孝を尽くした武蔵守殿と同じだ」 「同列に扱うな!!」 一ノ谷で知盛を庇って亡くなった知章を引き合いに出され、まるで彼を汚されたように感じた。思わずカッとなり、太刀に手が伸びた家長を、成能は「短気よな」と嘲笑った。 太刀の柄を握ったまま、怒りを抑える為深呼吸を繰り返す家長を暫く眺め、成能は冷静に言った。 「もう一度言う。いなくなれ」 「いやだ!」 「わからぬ奴だな。それでいいのか? 「きさまこそそれでいいのか!? 大事な中納言様は誇り高いお人故、敗北すれば必ず死を選ぶ!」 「心中の約束でもしているのか?」 「・・・・・・!」 不意に、嫉妬に燃える眼差しで家長に歩み寄り、それを抑えるかのように家長の太刀を握る手を掴んだ。 「その時は私が殺す! 必ずや捜し出してその首、私がもらう」 家長は掴まれた手を振り解こうと?きながら、思い切り軽蔑の眸を向けた。 「そんなことをしても源氏から侮蔑されるだけだぞ!」 「誰が源氏などに渡すと言った!? 渡しはせぬ…知盛様の首は誰にも渡しはせぬよ…」 クククッと嬉しそうに家長の耳元で笑う成能に、家長の力は抜けた。 (こいつ、狂っている…) 成能は家長の手を太刀からはずし、自分の方へ引き寄せた。 「その昔…福原で一目逢ったあの日から、私はこの人の為に生まれて来たのだと、この人の為に存在しているのだと…。そう全身全霊で感じたのだ。そしてその時思ったのだ。知盛様は誰にも渡さぬとな…誰にも…」 成能はうっとりと甘美な想い出に酔いしれた。そして再び家長を見据えると、 「三度目だ。家長、去れ!!」 「いやだ! そんなにおれが邪魔ならおれを刺せばいい」 成能は目を細め、ジロリと睨みつけると家長の首を締め上げた。 「お前の命など綿埃より軽い! そんなくだらぬものはいらぬ。それとも知盛様が己の死を悼み、悲しんでくれることを望んでか!? フッ! これだから乳母子の驕りは!」 成能は顔を背け、締めていた手を離した。家長は咳き込んだ。 「そんなんじゃない!!」 「イヤなら好きにすればいい。しかし私とて知盛様からの信頼を勝ち得ていることを忘れるな」 「そんなもの!」 (そんなものあるかよ!!) 家長は心の中で吐き捨てた。 「交渉決裂だな。しかし知盛様は渡さない。絶対に!!」 家長は成能の狂信的な眸に映る己を見つめながら、成能もまた家長の憎悪を跳ね返す眸の中に己を見つめている筈と、家長は顔を背けずに睨み返した。 暫し、視線を絡み合わせた二人は、やがてどちらともなく背を向けた。
「いよいよ明日だな…」 「はい…」 家長は真っ黒な海を前にする更に黒い知盛の背を見つめながら、小さく応えた。 明日、運命が決まる…。いや、尽きるのか!? それでもいいと家長は思っている。今ここにこうして知盛の傍にいられる。明日どんなことになろうと自分は決して知盛の傍を離れたりはしないだろう。そう、どんなことがあっても…。 何故あの時、成能を切らなかったのか…当然それも想定に入れて呼び出したつもりだったのに…。しかし、 『知盛様を全力でお護りする』 と言った成能の言葉に嘘は無かったと思う。自分がいなければの話であったが…。 「お前がいなくなれ!」 成能の言葉が蘇る。 (おれのせいなのか…!? おれが平家を滅ぼすのか…??) やはり切るべきだったか…。 そんなふうに思い、後悔もしたが、成能の想いは家長と重なるのだ。 彼の心がわかるだけに、切ることは憚られた。いや、出来なかった。彼を切ることは己の心を切るようだった。 確かに彼が言うように成能がどう出ようが、負ける時は負けるものなのかもしれない。 今はそんなふうに達観出来きた。それと同時に、家長が去らなければ裏切るなどと簡単に言っていた成能だが、おそらくどれ程か苦悩し、葛藤しているかと思うと、彼に対する怒りは消えた。 成能にとって『平家』より『知盛』なのだろう。しかし家長とて突き詰めればそうなのだ。 (おれ達は同じだ…) そう思う心が成能を許した。 (おれが護ればよいのだ。おれが最期まで護るのだ) そして知盛の死場所と手段を見つけ出してやればよい。 知盛に執着している成能を、それが故に家長を憎悪する成能を、家長は哀れに思った。成能が聞いたら怒るかもしれないが…。 ふと、 「家長、明日はどうなると思う?」 成能に心を占められていた家長を、知盛は現実に引き戻した。 「全ての力を出し切り、尽くすまで…」 「そんなことではなく、明日のこの時間にもこうして我々は海を眺めることが出来るかどうかということだ」 「・・・・・・」 家長にとって敵とは源氏というより、成能なのかもしれない…。成能にとって家長がそういう存在であるように…。 「本当の、本心を言ってよいのだぞ」 「本心など…私の心は知盛様と常に一緒でございます」 そう、一緒だ。心も身体も…離れはしない…。成能には触らせない…絶対に! 知盛と話している中にも、家長の頭の隅に常に成能はいる。 「お前がいなくなれ!」 という言葉と共に、ずっと…。 「いいんだ、家長。そなたももう平家の命運は尽きていると思っているのであろう?」 「・・・・・・」 背を向けてはいるが、知盛は笑っているのだと家長は思った。 「あとはどれほど華々しく散るかだ」 「知盛様!」 「兄上も母上も女院様も…口には出さずとも皆、覚悟は決めておろう。決まらないのは俺だけか!」 「・・・・・・!?」 「家長…」 絶句して返すべき言葉を捜す家長を、不意に振り返った知盛の眸が捉えた。 さっき笑顔を見たと思ったのに、その眸は笑ってはいなかった。 潤んだような黒い黒い眸でじっと見つめられ、妙にドキドキした家長は視線を外した。 暫く無言のまま佇んでいた二人だったが、知盛の双の目から透明な液体が盛り上った瞬間を目の端に捉えた家長は反射的に面を上げた。が、どうしてよいかわからずただ立っていた。 流れ落ちた滴を拭う為に、手を伸ばそうとしたのだが、眸を濡らす知盛があまりにも美しく、愛おしく、ずっと見ていたかった。いや、初めて己だけに見せてくれた知盛の泣顔が嬉しくて堪らないのだが、それを抑えることが苦痛だったのだ。 何か言わなければと焦る家長に、溢れ落ちた涙を拭いもせずに知盛は微笑みかけ、驚く家長の背をそっと抱いた。 「家長、家長、ありがとう…今まで…」 「と、知盛様!?」 予期せぬ知盛の行動に、家長の心臓は悲鳴を上げた。早すぎる鼓動を悟られはせぬかと、身体を離そうとしたが逆らえない。 いや、このまま抱き締め返した方がよいのだろうか…。 真っ白な頭で必死に考える家長に、 「でも、もういいのだ。いいんだよ…」 抱く腕に更に強く力がかかり、家長は失神寸前だった。 「な、なにを…?」 無意識のうちに更に更に力を込めながら、知盛は家長の耳元で囁いた。 「家長…伊賀へ戻れ」 「・・・・・・!!?」 再び頭の中を真っ白にさせられた家長の耳には殴られた後のようにじんじんと知盛の言葉のみが木霊した。 「一体何を!? 何故そのような!? この家長、知盛様のお傍を離れる気など毛頭ありませぬ!」 この期に及んでそんなことを!? 考えたこともないのに!? 「仟桜の元へ行ってやってくれぬか…? もう我々は誰も迎えには行ってやれない。約束を果たせるのはそなただけなのだ」 「知盛様! 今更そのような…。僭越ながら了承出来かねます」 家長はやっと知盛の腕の中から脱し、逆に彼の腕を掴むと半ば怒ったように言い放った。 「仟桜を育ててやって欲しいのだ」 「ひどいお言葉です…。私は…私は…」 「そなたにしか頼めぬ」 「ならば何故あの都落ちの日、そのまま伊賀に留まれと仰って下さいませなんだのか…!? いまさら…いまさら…」 がくりと肩を落とし、俯く知盛の顔を家長は跪いて覗き込み、唇を噛みしめた。 家長の目からもいつしか涙が溢れていた。 「あの時と現在とは違う…。あの時はまだ未来があった。そなたも留まれと言ってもきかなかったであろう」 「それは…」 「私もそなたを伊賀に留まらせるつもりなどなかった。家長には私の傍近くに居てもらわねば困る…。しかしこれからは…。あの時、仟桜を託したそなただから頼めることなのだ」 「納得出来ません!!」 知盛を見ずに叫ぶ家長を無理矢理振り向かせると、知盛も跪き、再び家長の肩を抱いた。二人は泣きながら抱き合った。 「そなたの今までの平家への忠誠心、ありがたく思う。これからはそれを仟桜に…」 平家への忠誠心なんかじゃあない! 知盛への想いだけだ! 知盛の腕の中で頭を振り続けながら家長は泣いた。そして、 (ああバカだな…。これでは成能と全く同じではないか!?) 知盛への想いは同じでも、平家への忠誠心ははるかに違うと思っていた自分がこんなことを思うなんて!? いや、思わせているのは知盛だ! 「家長、家長、そなたの気持ちはわかっている…わかっているんだ…」 一瞬、家長の肩がビクッと震えた。しかし自分の想う意味での知盛の言葉ではないと理解している家長は面を伏せたままだった。 「家長…」 知盛はすっと身体を離し、掴んでいた家長の腕をそっと膝に置き、そのまま家長の顔を己れの両手で挟んだ。 瞬間、家長の頬に電流が走り、顔が火照った。 「そなたの気持ちは全てわかっている…すまない…」 わかっている!? 何を!? 何の為の謝りの言葉!? 両手で家長の頬を挟んだまま、知盛は家長の額に自分の額を押しつけた。 「とももりさま!?」 「どう言えばわかってもらえる…?」 家長は長く知盛と一緒に居たが、これ程間近で彼に相対することはなかった。子供の頃は別として…。そう、子供の頃…。 たくさんの思い出と記憶を共有している二人は、触れ合った額から、出逢ってから今に至るまでの様々な事柄が流れ出して行くのをお互い感じていた。 額を通して心が溶けていくようだった。それは家長の動揺をも溶かしていた。 家長の瞼に仟桜の姿が浮かんだ。そして知章の仟桜を愛おしげに見つめる姿が…。 家長はしかし頭を振り、二人を心の外へ追いやった。そうして、落ち着きを取り戻した家長はほうっとため息を吐き、知盛の手を己の頬から離し、その手にそっと口づけた。 「されば、されば…いま一度共にと…仰せくださりませ!」 僅かに首を振った知盛の頬を、今度は家長が両手で挟み押えた。 「それだけが望みの言葉です。それ以外は受け付けられません」 「家長…」 「共にと…明日は共にと…」 「ついて来ると言うのか…」 家長は頷いた。 「地獄の底にまで!?」 再び家長は頷いた。 「どこまでも!?」 「どこまでも!!」 「共に来てくれるか?」 「御心のままに…」 「家長!!」 家長の手を振りほどき、再び知盛は彼の胸に顔を埋めた。 その時、波が揺れ、 「お前がいなくなれ!」 封じた筈の言葉が聞こえたような気がした。 そして黒い波間に更に黒い人影のようなものがユラリと動めいたようだったが、家長はもう気には留めなかった。 彼の心は知盛で満たされ、歓喜と絶望にうち震えていたのだから…。
翌日、寿永四年三月二十四日夕刻、平家は海の藻屑と消える。 潮流の変化と、船戦を知らない義経の汚い手口と、そして阿波民部成能の裏切りによって…。 |
若狭さんが私の誕生日のお祝いに・・・vと小説を書いてくださいました。 |