夕 波
水咲若狭 様




 その時、俺は何が起こったのかよくわからなかった。
 何故、菊王は倒れているのか?
 何故、倒れたままなのか?
 菊王? どうした? 何故起きない? そんな所にいたら危ない。
 起きろよ! 菊王! 早く!!
 俺はよくわからぬままに走り出していた。
 わずかな距離なのに、菊王がひどく遠く感じた。
(菊王、菊王、今行くから!)
 口の中で呪文のように唱えながら、全速力で走った。
 走って走って、やっと辿りついたのに菊王は動かない。
「菊王…?」
 抱き起した菊王の胸に刺さった一本の矢が何を意味しているものか…?
 俺は理解していなかった。いや、理解したくなかったのだ。
「菊王…起きろよ! おい、菊王!」
「・・・・・・・」
「なに? なんて言ったんだ? オイ! 目を開けろよ! 菊王――!!」
 微かに菊王の口が振え何事か言ったようだったのだが、俺には聞こえなかった。
「頼むから目を開けてくれよ、菊王!!」
 俺は念じるように何度も何度も菊王の頬をなでながら呟いていた。
 菊王の顔はやわらかで、笑っているようだった。
 俺は生前最後に見た菊王の顔を思い出そうとしたが出来なかった。
 それは俺が菊王を見ていなかったからだ。
 俺が見ていたのは…
「兄者! 兄者――!!」
 俺は彼方から響いてくる絶叫によって、我に返らされた。
 その男は一人の武者を抱えて泣きむせんでいた。
 俺は何の感慨もないままその光景を眺めていた。
 そして、その傍らに先程俺が鏃の狙いを定めた相手がいた。
 ふと、ヤツが俺の方を向いた。
 眸(め)が合った。
 俺は失敗したのだ。
 ヤツを殺すことに…。
 だから今、菊王はここに倒れている。
 ヤツを庇った男のために…。
 俺の身体の中にどうしようもない哀しみと憤りが湧き上がってきた。泣き叫びたい想いと、全てをメチャクチャに破壊したい衝動と…。
 俺は一瞬、このまま走ってヤツの首を掻っ切ってやろうかと思った。
 周囲に何人かいたが、そんなもの蹴散らす自信はあった。しかし殺ったら、殺られるだろう。
 なに、相討ちでもかまわない! けれど…。
 俺は不意に抱いている腕の中の重さを思い出した。
(菊王! 菊王、菊王…)
 俺はギリギリと唇を噛み締め、判官を睨みつけた。
 何人かが、俺に鏃を向けたが、判官はそれを制した。
それがまた俺の癇に障った。
何で止めるんだよ! やらせればいいだろう!! そんなものに当たる俺じゃない!!
 再び湧き上がった激烈な殺意を動かない菊王に押しとどめられ、俺は彼を抱き上げ立ち上がった。
(義経! 絶対にお前だけは許さぬ!!)
 口中に血の味が広がるのを感じたが、菊王の流した血に比べればこんなもの、血ですらないだろう。
 俺は最後にもう一度ゆっくりとヤツを振り返った。
(判官、俺を忘れるなよ…)



寿永四年二月二十一日、平家は屋島を失った。
伊予の河野通信を攻めに出ていた田口教能が引き揚げて来るのを待ち、源氏を殲滅するつもりでいたのに、あろうことか彼は源氏に振り、その上源氏の水軍が近づきつつあるというので、やむなく屋島を離れることになったのだ。
もう我々には船上しか残されていない。つい数年前まで数十ヶ国を従えていたのに、現在は一片の土地さえも我々には存在しないのだ。
それは俺の所為だった。
俺は己の未熟さを憎悪した。
『内大臣…宗盛殿…俺は自分が許せないんです!』
『能登守、何もそなたのせいではない。敵をよく把握もせずに判断した私が悪かったのだ』
『いいえ、結果的にはよかったことです。いくら敵の人数が少ないとはいえ、こちらは女子供、帝までおられる大所帯。そこかしこに火の手は上がっていたし、館に踏み込まれ、たり、帝を押さえられたら応戦しきれたかどうか…それより、その後の指揮の拙さです。それは全て水軍の全権を任されていた俺の責任です!』
『能登守…』
『俺は中納言様にあわせる顔がありません…知盛殿がおられたらこんなことには決してならなかったはず…己のいたらなさを後悔するだけでは面目がたちません。どのように詫びようともこの罪は消えはしません』
『それを言うなら私も同罪だ。いや、私の方がよっぽど罪は重い』
『いいえ、いいえ、俺は知盛殿から軍事的指揮権を託されていました。知盛殿は自分の代わりにと俺を指名して下さったのです。俺に内大臣殿の補佐をするようにと…。なのに何も出来ないばかりか、斯様な大失態を…。知盛殿の信頼を俺は裏切ったのです。許されることではありません!』
 俺は途中から激し過ぎて涙が止まらなくなった。
 宗盛殿はそんな俺の愚痴を聞いて下さり、最後に、
『それでも悪いのはそなたではない。私だよ。能登守はよくやってくれた』
と言って下された。
 そんなことはないのだ。そんなことは…。
 知盛殿が彦島へ行かれる前に俺を呼び、全てを任せると言ってくれた時の感動を俺は忘れることが出来ない。
『私の代わりを任せられるのはそなたしかいない。わけても水軍は教経が全てを』
 握られた手から身体中に震えが走った。それは喜びであり、震えるほどの恍惚感であった。
 俺にとって絶対的存在である知盛殿からの信頼は大きな自信であり、誇りであった。
 平家の軍事的トップを任されたという事実より、知盛殿がそこまで俺を信頼してくれているのだということが感激だった。
 それなのに、それなのに…その期待に応えられなかった俺…。
 己の不甲斐無さと同時に改めて知盛殿の大きさを痛感せずにはいられなかった。
 もう知盛殿の俺への信頼は無いだろう。
 失ったものは屋島だけではないのだ。俺にとっては…。
 知盛殿の信頼と、そして菊王…。
 己がどれ程自己中であったかを、どれ程反省してももう遅い…。
俺は屋島での平家の指揮官でありながら、最前線へ出て行き判官を捜した。
 一ノ谷の仇を討つことしか頭に無かった俺…。兄上の、業盛の、若狭の、叔父上の仇を討つことのみに全てを注いでしまった。
 そこに義経がいるという事実を前に私事≠優先したのだ。つくづく俺はトップには向かない人間なのだと思った。上に立つ器ではない。
 俺はあの時、確かに己の立場を忘れていた。いや、ヤツさえ倒せば後はどうにでもなると思っていたのも事実だが、己が出て行かなければ気がすまなかった。いや、俺がこの手でヤツを屠ることに意義があるのだと思っていた。負けてしまえばどうしようもないことなのに俺は拘りすぎた。結果、菊王を死なせてしまった。
 菊王、菊王、すまぬ…やはり俺なんかではなく、父上の許に預けるべきだった…。しかし俺の傍にいることを望んだのは菊王自身であったのだ。
『大殿様のお世話も私が致します。でも教経様のお傍に置いて下さい。戦場で手柄を立てたいし。それに教経様のお傍にいることが、私が残された意味なのだと思うのです』
『なんだ、そりゃ?』
『通盛様が私に教経様を見張れ…じゃなくて、見守る様にと、私がお傍にいる様に言ってるのだと思います』
『そんなもの、お前の勝手な解釈だろう? 俺は兄上からお前のお守を押しつけられたんだよ!』
 兄上、ゴメン…。菊王を殺しちまった…せっかくせっかく一ノ谷で助かった命なのに…。
 でもあの一瞬、
(兄上!! 連れて行かないでくれ!! まだまだ菊王を連れていかないでくれよ!!)
 必死で祈ったあの時…菊王は実は嬉しかったのではないかと思うのだ。ずっとあの時を待っていたのではなかったのかと…。本当は…本当は俺なんかの傍ではなく、兄上の傍に居たかったのに違いないのだから…。
 あの時の菊王の微笑むような死顔はそう言っていた。
 けれど、それでも逝ってほしくはなかった!! いや、居て欲しかった…俺の傍に…。
 菊王を失った瞬間、俺は我を失った。制御出来なかった。指揮官にあるまじき行為だ。自分が感情的過ぎるのはわかっていたが、一ノ谷以降ひどくなっていた。それもわかっていた。 しかしそれでは大将は務まらない。
一ノ谷で多くの人々を失った。けれど俺には菊王がいた。それがどれ程救いであったことか…。
一体菊王とは、俺にとって兄上の小姓でしかなかったが、幼い頃から知っていたし、業盛ともよく遊んだ。俺ら兄弟のことをよくわかっていたから、兄上のことも業盛のこともいくらでも語れた。菊王がいてくれたおかげであのどん底の悲しみから立ち直れたと言っても過言ではない。
この一年の間に菊王はそれ程までに俺にとってなくてはならない存在になっていたのだ。
菊王がいたから、俺はなんとかやってこれた。
菊王がいたから、俺は現在(いま)ここにいることができるのだ。
菊王がいたから…菊王がいたから、菊王がいたから…菊王、菊王、菊王!!
でも果たして、お前はそれでよかったのか!?
知盛殿に断るべきだったのだ。とても俺はそんな器ではないと…。彼に信頼されている嬉しさのあまり、そして判官憎さのあまり己を見失っていた。
(若狭、若狭、どうしたらいい? どうしてお前ここにいないんだよ!? 暴走する俺を止めてくれるヤツが必要なんだよ! お前が暴走した時、俺が止めてやったろう? なんで止めてくれないんだよ…なんで、帰って来ないんだよ…)
 不覚にも俺はまた泣いてしまった。



彦島にたどり着き、知盛殿の姿を見た時俺はまたも涙を見せてしまった。
なんてだらしのない!! 一体俺はいつからこんな泣き虫になったのか!?
それでも彼の姿を見た時の安堵感といったらなかった。でもそれは俺だけじゃないだろう。誰しも皆、想いは同じだったのだと思う。そう思うにつけても、やはり俺はダメだと思う。誰も俺には安心感を持たない。実績というものもさることながら、カリスマ的なものが彼にはある。その存在感、牽引力、人徳…今の平家の中では最大的だろう。
悲しいかな、宗盛殿には欠けているものだった。けれどだからといって、俺はあの方が総領に相応しくないとは思わない。何より知盛殿が思っていない。
あの方の優しさは今の平家(われわれ)にとっては絶対に必要なものだからだ。あの二人は二人で一人なのだ。双方が互いにそう思っているのだから、最も良い関係なのだと思う。おそらく今、知盛殿に逢えて一番嬉しく思っているのは宗盛殿なんだろうなあと思った。

その晩俺はただ一人、知盛殿の船に呼ばれた。再会して初めて眸(め)が合った時も、そして今も彼は何も言わない。無言の重圧が俺を苦しくさせていた。いっそ激しく叱責された方がどれ程楽なことか!? 怒っていないはずがないのだから…。
しかし彼は…、
「まず事の詳細を聞こう」
「それは…」
「そなたの口から聞きたいのだ。そなたの見た状況の全てと、そなたの思うところを」
 俺はなるべく冷静に客観的に述べたつもりでいた。
 菊王のことは一言ですませた。それでも田口教能に合流出来ずに叛かれたことを話していると、声が上ずってまた悔し涙が溢れてきた。 喉がつまって話せなくなっても、彼はよいとは言わなかった。
 俺も暫く泣くに任せてしまい、沈黙が続くと、
「もう終わりか?」
 冷たい言い様にハッとした。
「はい…」
「ご苦労であった」
 俺は顔が上げられなかった。上げられぬまま、ガバっとその場にひれ伏すと、
「申し訳ございません!!」
 やっと言えた。本来、一番初めに言わなければいけないことだったのに、なぜか言えぬまま現在に至ってしまっていた。
 怒ってくれ! 怒鳴ってくれ! 足蹴にしてくれ!
 俺は彼からのどんな仕打ちも叱責も受け入れるつもりでいた。それだけのことを俺はしたのだから…。いや、何も出来なかったと言うべきか…なのに…
「教経、面をあげよ」
 意外な程優しい響きの声に俺はうろたえた。顔は上げられない。
「面をあげよと言っている」
「はい」
 俺はおそるおそる状態を起こし、怖々知盛殿の眸を見つめた。
 彼は笑っていた。
「大変だったな。兄上を…内大臣殿を援けてくれてありがとう。礼を言う」
 俺は面喰って、再びひれ伏した。
「おい、面をあげよ」
「いいえ、いいえ…お叱りを…どうかお叱り下さい!」
「何を言ってる?」
「俺は礼を言われることなど何一つ…」
「俺の居ない屋島をよく護ってくれた。感謝している」
「さようなこと…何故、何故お叱り下さらないのです!?」
「兄上が能登守は精一杯働いてくれたと…菊王が亡くなったのに悲しみを見せずに最後まで戦ってくれたと」
「何で、何でそんな…俺の所為です…俺の所為なのに…」
「誰の所為でもない。ましてやそなたがそんなに責任を感じることではない」
「でも屋島を失ったのです」
「それは大きいけどな…。しかし強いて上げるなら兄上の所為だ」
 俺の顔は強張ったのに、知盛殿はニヤリと笑った。
「いいんだよ。その件はさっき兄上とやりあった。俺も言いたいことは言った」
「知盛殿…」
「終わったことをあれこれ言っても仕方がない。これからのことを考えよう」
 俺は死をも覚悟していたのに、申し訳なくて身体が震えた。
「おいおい、また泣くのか? まあ、涸れるまで泣けばいい」
「知盛殿!!」
 俺はこの人のこういう懐の深さと、物事を引きずらないあっさりしたところがたまらなく好きだった。
 しかし…俺は項垂れていた顔を一気に上げると、
「ありがとうございます。こんな俺に慈悲を…。しかしもう俺は大将でいる資格がありません。俺の全てを剥奪して、俺を、俺を…」
「そんなことはない」
「いいえ、いいえ…」
「俺はそなたにならと屋島を託したのだ。教経、手を貸してくれ。これからもまだまだ俺を援けてくれ」
「知盛殿…」
「そなたの他に誰がいる? もう通盛も重衡もここにはいないのだ。業盛も、知章も…。このまま源氏にすんなり勝たせてよいものか!? そなたとて悔しかろう!? 二人で源氏を最後まで手古摺らせてやろうじゃないか。俺にはそなたが必要なのだ!」
 そう言い切った彼の眸が、まだ俺を信頼してくれている眸であったことが嬉しくて、申し訳なくて、俺はただただうなづくばかりだった。

 菊王、見ていてくれるか? 俺の最後の晴れ舞台を!
 本当は俺の隣にいるお前に見せたかった。
 俺はまた暴走するかもしれない。いや、暴走してやる!!
 若狭、止めるなよ! いや、もう止めなくていいんだ。
 そして今度こそ必ず義経を!!
 俺はあの屋島での一瞬の邂逅を思い出しながら、
(判官、俺を忘れるなよ!!)
 ヤツだけは必ず俺がこの手で…。
あの日弓を引いた時の、そして抱いた菊王の温かさと冷たさの感触の残る己が手を見つめながら俺は心に誓った。



毎年の恒例行事にしてしまいました。
若狭さんが私の誕生日のお祝いに小説を書いてくださいました。
いえ、何、何のことはないんです。
自分の誕生日が迫ると、めっちゃ
「もうすぐ私の誕生日なんだけどぉぉぉっv」
と強請りまくっている訳なんですよ、これが(^^;)

菊王と教経、大好きです。
教経の性格とかが、大好きなんですが
あの狂い牛とまで言わせた教経を、
菊王が死んじゃうだけで戦意喪失させちゃうなんて
そんなしおらしい(?)教経の一面も好きですv
若狭さんのSSの教経は、
かなり狂い牛っぽくて、そのくせちゃんと菊王の事も意識している・・・
なんというか、武門平家の代名詞が知盛なら
教経は、若いながらもその辺をちゃんと汲んでる勇猛さが好きですv

若狭さん、ありがとうございました〜v

イラスト扉へ
TOPへ

inserted by FC2 system